水はどこへ流れていくのか【前編】 ―テクノロジーの時代に、子どもを育てるということ

保護者のみなさまへ

先日、電気自動車について話していたときのことです。

「ガソリン車はなくなるのか」

「日本の技術はこれからどうなるのか」

そんな話題から、私はふと教育のことを考えていました。

時代はこれからどこへ向かうのだろう。

そして、その時代を生きる子どもたちに、私たちは何を育てたいのだろう。

今日はそんなことについて書いてみたいと思います。

ある巨大企業が、なぜ時代の流れを見失ったのか

かつて写真フィルムの世界に君臨した巨大企業がありました。

デジタルカメラが登場したとき、その会社は「あんな解像度の低いものがフィルムに勝てるはずがない」と考えたと言われています。

確かに当時のデジタルカメラには欠点がたくさんありました。画質も十分ではなく、フィルムに代わるものではありませんでした。

ところが技術は予想を超える速さで進化し、やがて世界の写真文化そのものを変えてしまいました。

私はこの話を聞くたびに考えます。

なぜ最も技術を持っていた会社が、その変化を読み切れなかったのだろう、と。

それはきっと、

「今うまくいっていること」の物差しで、新しいものを測ってしまったから

ではないかと思うのです。

成功体験は大切です。

けれど、ときに成功体験は、時代が向かう方向を見えなくしてしまいます。

水は、低いところへ流れる

私はこの話を、自動車の電動化とも重ねて考えていました。

「ガソリン車はなくならない」

そう言う人がいます。

確かにそうかもしれません。

レコードも残っています。
フィルムカメラも残っています。
万年筆も残っています。

でも、それと時代の流れがどこへ向かっているかは別の話です。

山から流れ落ちる水を思い浮かべてください。

どの石にぶつかるか。
どの枝分かれを通るか。

それは誰にもわかりません。

けれど、水が低いところへ流れていくことだけは変わりません。

どの道を通るかはわからない。けれど、どちらへ向かうかは見えている。

私はこのことを考えているとき、ハッとしました。

「日本の技術こそ素晴らしい」

そう胸を張る私たちもまた、知らず知らずのうちに同じ思考に陥っていないだろうか。

そしてそれは、教育の世界でも同じではないだろうか、と。

「改善」だけでは未来に届かない

私たちが取り組んでいる「芸術による教育」も例外ではありません。

少しうまくいくと、人は改善しようとします。

もちろん改善は大切です。

けれど改善とは、今ある物差しの中でより良くしようとすることでもあります。

もしその物差し自体がこれからの教育のあるべき姿からずれていたらどうでしょう。

どれほど努力しても、より正確に違う方向へ進んでしまうかもしれません。

だから私は、ときどき立ち止まって考えます。

今、自分たちはどこに向かっているのだろう。

水はどこへ流れているのだろう。

テクノロジーが配り続ける「しなくていい」

外から眺めてみると、一つの流れが見えてきます。

テクノロジーはずっと人間に

「しなくていい」

を配り続けてきました。

歩かなくていい。
計算しなくていい。
覚えなくていい。

そして今は、

描かなくてもいい。

そんな時代になろうとしています。

AIは絵を描きます。

文章も書きます。

音楽も作ります。

これから先、その流れはさらに加速するでしょう。

けれど私は思うのです。

それでも人は走るだろう、と。

それでも人は考えるだろう、と。

それでも人は描くだろう、と。

なぜなら、

人は、自分の力でやりたい生き物だからです。

そして、

人は、死ぬまで成長したがる生き物だからです。

AIが何でも描ける時代だからこそ、自分の手で一本の線を引いた子どもの「できた!」は、ますます価値を持つようになるのではないでしょうか。

ここまで書いてきて、私はもう一つ大切なことに気づきました。

それは、人は単に「やりたがる」だけではなく、もっと根源的に「わかりたがる」生き物なのではないか、ということです。

後編では、その「わかりたがる力」と、私たちが考える芸術による教育との関係についてお話ししたいと思います。