水はどこへ流れていくのか【後編】 ―変わらないものを育てる

人は、なぜ描くのだろう

テクノロジーの流れを眺めていて、私はあることに気づきました。

テクノロジーは一貫して、人間に「しなくていい」を与え続けてきたのです。

歩かなくていい。

計算しなくていい。

覚えなくていい。

そして今は、

描かなくてもいい。

便利さとは、突き詰めれば「人間が手放していいもの」を増やし続けることなのかもしれません。

けれど私は、不思議に思うのです。

もし本当にそうなら、未来の人は走らなくなるのでしょうか。

考えなくなるのでしょうか。

描かなくなるのでしょうか。

おそらく、そうはならないと思います。

なぜなら人は、自分の力でやりたい生き物だからです。

できなかったことができるようになる喜びを知っているからです。

AIが絵を描ける時代になったとしても、子どもが自分の手で一本の線を引き、「できた!」と笑う姿はなくならないでしょう。

むしろ、その価値は今まで以上に大きくなるのかもしれません。

人は、わかりたがる

もう一つ、気づいたことがあります。

人は「わかりたがる」生き物でもある、ということです。

赤ちゃんは何でも触ります。

子どもは何度も質問します。

なぜ。

どうして。

それは知識を増やしたいからではありません。

世界とつながりたいからです。

ところが私たち大人は、ときどき近道をしてしまいます。

「この子はこういう子だろう」

「答えはこれだろう」

経験が増えるほど、わかったつもりになってしまう。

そして、その瞬間に関わりが少し雑になる。

これは私自身も気をつけなければならないことです。

子どもが考え込んでいる姿を見ると、つい教えたくなります。

待つのはもどかしい。

でも、そのもどかしさは大人の事情であって、子どもの事情ではありません。

子どもはその時間に、自分の力で世界を理解しようとしているのです。

わからないことが、人を育てる

振り返ってみると、私たち大人の仕事も同じではないでしょうか。

本当に価値のある仕事とは、誰も答えを持っていない課題と向き合うことです。

そして、その力は子どもの頃から育っています。

考えたこと。

迷ったこと。

失敗したこと。

もう少しやってみようと思ったこと。

そうした時間の積み重ねが、やがてその人の土台になります。

だから私は、子どもたちにテクノロジーで楽をしてほしいとは思いません。

むしろ逆です。

テクノロジーを使って、もっと考えてほしい。

もっと試してほしい。

もっと知りたがってほしい。

同じ道具でも、向きが違うのです。

流れが速くなるほど、深く湧く泉

前編で私は、「水は低いところへ流れる」という話を書きました。

時代の流れは止まりません。

AIも、これからさらに進化していくでしょう。

私たちはその流れを否定しません。

むしろ学び、活用していきたいと思っています。

けれど、それは手段の話です。

私たちが子どもたちに願うことは変わりません。

自分で感じること。

自分で考えること。

自分でわかろうとすること。

そして成長することを楽しむこと。

教育の目的は変わりません。

変わるのは、その目的へ向かうための道具や方法です。

走らなくていい時代に、なお走る喜びを。

描かなくていい時代に、なお描く喜びを。

わからなくていい時代に、なお、わかりたがる情熱を。

それを子どもたちの中に灯し続けることが、私たちの目指す「芸術による教育」です。

時代の潮流は変わります。

道具も変わります。

けれど、人が成長したがり、わかりたがる生き物である限り、私たちが目指す教育の目的は変わりません。

むしろ流れが速くなるほど、その価値は深く湧き出してくる。

私はそんなふうに感じています。