人は、なぜ描くのだろう
テクノロジーの流れを眺めていて、私はあることに気づきました。
テクノロジーは一貫して、人間に「しなくていい」を与え続けてきたのです。
歩かなくていい。
計算しなくていい。
覚えなくていい。
そして今は、
描かなくてもいい。
便利さとは、突き詰めれば「人間が手放していいもの」を増やし続けることなのかもしれません。
けれど私は、不思議に思うのです。
もし本当にそうなら、未来の人は走らなくなるのでしょうか。
考えなくなるのでしょうか。
描かなくなるのでしょうか。
おそらく、そうはならないと思います。
なぜなら人は、自分の力でやりたい生き物だからです。
できなかったことができるようになる喜びを知っているからです。
AIが絵を描ける時代になったとしても、子どもが自分の手で一本の線を引き、「できた!」と笑う姿はなくならないでしょう。
むしろ、その価値は今まで以上に大きくなるのかもしれません。
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人は、わかりたがる
もう一つ、気づいたことがあります。
人は「わかりたがる」生き物でもある、ということです。
赤ちゃんは何でも触ります。
子どもは何度も質問します。
なぜ。
どうして。
それは知識を増やしたいからではありません。
世界とつながりたいからです。
ところが私たち大人は、ときどき近道をしてしまいます。
「この子はこういう子だろう」
「答えはこれだろう」
経験が増えるほど、わかったつもりになってしまう。
そして、その瞬間に関わりが少し雑になる。
これは私自身も気をつけなければならないことです。
子どもが考え込んでいる姿を見ると、つい教えたくなります。
待つのはもどかしい。
でも、そのもどかしさは大人の事情であって、子どもの事情ではありません。
子どもはその時間に、自分の力で世界を理解しようとしているのです。
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わからないことが、人を育てる
振り返ってみると、私たち大人の仕事も同じではないでしょうか。
本当に価値のある仕事とは、誰も答えを持っていない課題と向き合うことです。
そして、その力は子どもの頃から育っています。
考えたこと。
迷ったこと。
失敗したこと。
もう少しやってみようと思ったこと。
そうした時間の積み重ねが、やがてその人の土台になります。
だから私は、子どもたちにテクノロジーで楽をしてほしいとは思いません。
むしろ逆です。
テクノロジーを使って、もっと考えてほしい。
もっと試してほしい。
もっと知りたがってほしい。
同じ道具でも、向きが違うのです。
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流れが速くなるほど、深く湧く泉
前編で私は、「水は低いところへ流れる」という話を書きました。
時代の流れは止まりません。
AIも、これからさらに進化していくでしょう。
私たちはその流れを否定しません。
むしろ学び、活用していきたいと思っています。
けれど、それは手段の話です。
私たちが子どもたちに願うことは変わりません。
自分で感じること。
自分で考えること。
自分でわかろうとすること。
そして成長することを楽しむこと。
教育の目的は変わりません。
変わるのは、その目的へ向かうための道具や方法です。
走らなくていい時代に、なお走る喜びを。
描かなくていい時代に、なお描く喜びを。
わからなくていい時代に、なお、わかりたがる情熱を。
それを子どもたちの中に灯し続けることが、私たちの目指す「芸術による教育」です。
時代の潮流は変わります。
道具も変わります。
けれど、人が成長したがり、わかりたがる生き物である限り、私たちが目指す教育の目的は変わりません。
むしろ流れが速くなるほど、その価値は深く湧き出してくる。
私はそんなふうに感じています。

投稿日 : 2026年6月13日