隕石をぶつけた富士山

お正月が明けて、最初のレッスンのことだった。

その日のテーマは「墨絵」。幼児さんたちと、硯と筆と墨汁を前に向き合った。正直に言おう。

(心の中で) 「幼児と墨汁は、なかなかのドキドキ案件だ」

お借りしているお部屋の床に墨が飛んだら。筆洗のバケツを蹴飛ばしたら。大人の心配は尽きない。いつもより少し背筋を伸ばして、教室全体もどことなく緊張した空気の中、レッスンが始まった。

 

「新年のお絵描きだね。描き初めだね。さて、何を描こうか……」

 

そうだ、富士山を描こう。お正月と言えば富士山。縁起もいい。しかも墨一色でも迫力が出る。

そう思って、子どもたちの前で――やってしまった。インパクトのある見本を、しっかりと描いて見せてしまったのだ。

 

描きながら、心の中で後悔がよぎる。

(心の中で) 「しまった……見本を出したら、みんな同じになってしまう」

案の定、子どもたちはほとんど全員、富士山を描き始めた。書道の稽古のように、お手本を写す時間になってしまった。「ああ、自由を奪ってしまったかも」と思いながら、子どもたちの手元をながめた。

 

ところが、よく見ると――同じ富士山が、一枚もない。

線の勢いも、形も、余白の使い方も、ちゃんと一人ひとり違う。同じ「富士山」というテーマで描いているのに、それぞれが自分だけの世界を持っている。ほっと息をついたその瞬間、私の目に飛び込んできたのが――あの一枚だった。

「いんせきだよ!」

富士山のお顔のほっぺたに、黒い丸が、どーん。思わず、その子に声をかけた。

わかめ先生 「ねえ、この富士山のてっぺんにくっついてる黒い丸は何?」

子ども 「いんせきだよ!」

わかめ先生 「えっ!? 隕石がぶつかったの? 富士山に??」

「いんせき」という言葉を知っていることにも驚いたが、もっと驚いたのはその次だった。よく見ると、富士山の「目」のあたりに、何かが乗っている。透明な、水の膜のようなもの。

わかめ先生 「もしかして……この富士山、泣いてるの?」

子ども 「そうだよ! いんせきがぶつかって、いたいって、ないてるの!」

 

私は、その場で固まってしまった。

この子は、墨で涙を表現したのではなかった。筆洗バケツの水を、直接画用紙の上に垂らしたのだ。墨の黒い富士山の目の上で、水がゆっくりと広がっていく。それが、泣いている富士山だった。

 

こんな発想は、大人にはまず出てこない。隕石を衝突させること自体、そうだ。泣いている理由を「痛み」から説明すること自体、そうだ。そして何より、墨ではなく「水」で涙を表現すること――大人の頭では、絶対にたどり着けない。

見本を超えた子どもたち

私は、「見本を描いてしまった」「自由を奪ったかもしれない」と思っていた。だが、それは完全に大人側の思い込みだった。子どもたちは、見本なんか軽々と超えてくる。借り物の形を自分の世界に引きずり込んで、まったく別の物語にしてしまう。

 

このとき私は、ある問いを持った。私たち大人は、子どもの絵の「何」を見ているのだろうか、と。

 

「上手に描けているかどうか」? 「先生の見本に似ているかどうか」? 「色がはみ出ていないかどうか」?

 

隕石をぶつけた幼児の絵を、もし「上手か下手か」で見たら、どうなる。答えは明白だ。「下手」だ。富士山の形は崩れているし、バケツの水で画用紙をびしょびしょにしてしまっている。

でも――それが「正直だ」と思わないか。

 

その絵には、その子の世界が、そのまま描かれている。隕石が好きで、痛みに共感して、水で涙を表現しようとした、その子のこころが、まっすぐに出ている。

子どもの絵は、正直なのだ。


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