私の教室に、かずくんという男の子がいました。
三歳の頃から通ってきた子です。
小さくて、いつもニコニコしていて、
でもひとたび絵を描き始めると、
ふっと表情が変わる。
ああ、今、この子は
自分の世界に入ったな――
そんなふうに感じる子でした。
かずくんの描き方は、
ほかの子と少し違っていました。
最初に「何を描くか」を決めないのです。
テーマもない。
完成形のイメージもない。
ただ、手を動かし始める。
まるで砂場に手を入れて、
とにかくこねてみるように。
でも、それがとても面白いのです。
描きながら、どんどん変わっていく。
最初は何かのつもりだった形が、
線を重ねていくうちに、まったく別のものになる。
そしてその「別のもの」が、
また次の発想を呼んでくる。
まるで、絵と会話をしているようでした。
あるとき、私はかずくんに聞きました。
「かずくん、描く前に、何を描くか決めてるの?」
かずくんは、少しだけ考えて、こう言いました。
「ん〜……描いてたら、決まってくる」
私は、その場でしばらく黙ってしまいました。
三歳の子どもが、当たり前のように言った言葉です。
でもそれは、
私が長い間、探していた言葉でもありました。
考えてから描くのではない。
描きながら、考える。
大人はよく言います。
「よく考えてから描きなさい」
でもそれは、
頭の中にすでに完成した絵があって、
それを紙の上に写す、ということです。
たしかに、整った絵にはなります。
でもそこには、もう
「正解」があるのです。
かずくんの描き方は、その逆でした。
正解がないまま、始まる。
どこへ向かうかもわからない。
だからこそ、
毎回、自分でも予想しなかったものが生まれてくる。
私は、その姿をずっと見ていました。
そして、思っていました。
ああ、この子は、
いい人生を歩くだろうな、と。
その後、かずくんは小学校六年生になりました。
気がつくと、クラスの中で
「師匠」と呼ばれるようになっていました。
さらにその翌年には、「画伯」と呼ばれていたそうです。
あるとき、学校でコンクールに出す作品を選ぶ場面があったそうです。
担任の先生が、生徒たちに聞きました。
「どの作品を選ぶ?」
すると、多くの子どもたちが言いました。
「かずくん」
先生は少し驚いたそうです。
それまで先生は、
わかりやすく、上手に見える絵を選んできたからです。
なぜ子どもたちが、かずくんの絵を選ぶのか、
最初はよくわからなかったそうです。
でも、その作品は、見事に受賞しました。
その知らせを聞いたとき、
私は、不思議と驚きませんでした。
ああ、やっぱり、と思いました。
かずくんが評価されたのは、
「上手だったから」だけではありません。
正解がないまま、始められること。
わからないまま、進めること。
そして、その中で生まれてくるものを、
おもしろがれること。
その力が、あったからです。
「描いてたら、決まってくる」
三歳のときに、ぽつりとつぶやいたあの言葉。
あの言葉の中に、
すでにすべてがあったのだと思います。
そして私は、こう思うのです。
子どもたちは、本当はみんな、
この力を持っています。
ただ――
大人がそれを、
急がせてしまったり、
整えすぎてしまったりしているだけなのかもしれません。
もし、少しだけ手を止めて、
そのまま見守ることができたなら。
きっと、その子の中から、
その子にしか描けない世界が、
ゆっくりと立ち上がってくるはずです。

投稿日 : 2026年3月20日